文芸というジャンルは死んだのか、否か。
「創作文芸のビジョン」集積 - 論理兵站 - ファック文芸部
を読んだ。
卵の殻を破らねば、ひな鳥は生まれずに死んでゆく。
卵の殻を破壊せよ。
ああ、少女革命ウテナは名作でした。でもあのオープニングは改めて聴くと
間延びして聞こえる。当時は斬新さ成分で脳内高速再生されていたのでせう。
さて、我々は認識の檻の中に生まれ、認識の檻より出ることなく死んでゆくのか。
文芸という固定的フォーマットの中で、くだらない男女間の愛憎会苦を
再生産し、麻薬とセ○○スだけを描写していればそれで満足なのかコノヤロウ。
文芸というと青い鴉であるところの僕はオードソックスに村上春樹などが
頭に思い浮かぶわけですが、羊男というファンタジー的成分はあの作品に
真に必要とされているのかしらん。そんな不毛な問い。
まあぶっちゃけ、文芸というものは一つの原型でした。
私小説しかり、純文学しかり、恋愛小説しかり、それらが何によって
集合として成り立っているかといえば、そこに存在する視点および
人物関係の類型化によるものにほかならず。
故に現実世界から隔絶された世界観それ自体を提案する
SFやファンタジーや学園モノや各種妄想系ラノベは、文芸の異端として
あるいは鼻で笑われ、あるいは文芸に非ずとののしられてきた。
要するに一般人の脳がついていけない=異端、という構図が
根底にあるわけで、ああまったく電脳硬化症ってのは恐ろしいねと
僕はこれらの破綻の限界を超越した文体を以て訴えたいわけです。
ならば文芸のアーキテクチュアはいつ破壊され得るのか。
それは未来永劫起こりえないのか。まさかだろ!!
たとえば鈴宮ハルヒの憂鬱(ここでは原作の小説を指す)においては、
主人公の独白が作中の主要成分を占め、なおかつハルヒがその思考を
読んだかのような発言をすることによって表情を読まれてしまったかのような
対面的リアリティを作者は演出せしめたわけである。
他にも、そもそも言語として成立していなくとも作品足りうるという
事実を端的に示したケータイ小説など、この世にはまったく文芸足り得ぬと
明確に異端視され、それゆえに文芸それ自体の死滅と時代を共に
することを免れたジャンルなどもあるわけです。うむ。
そういった手法的な意味での文芸の進化はいまだ続いているのであり、
ゆえに僕は卵の殻を破壊するハンマーは決して非実在の銀の弾丸では
ないのだとか、そこには望むならば無限の可能性があったりなかったり、
つまるところワシはそんなことが言いてーーー。
ぶっちゃけ、プログラマは大抵理想のプログラミング言語を妄想して
やみません。それはまさに言語の再構築であり、新しい言語に飛びつく
ミーハーさは大抵現状への不満の裏返しであったりします。
その点、では日本語は果たして満足できる言語なのか。私はそうは
思わないし、不完全な日本語で明確なるニュアンスを表現するためには
敬語と非敬語、文語と口語の選択的行使も一つの潮流としてというか
潮流になってくれたら僕の日記が正当化できるようなぁと考える考える考える青い鴉。
大事なことなので3回言いました?
#ところで僕は普通の文章っつーもんは書けんのか?
##まあテキトーにブギーポップのあとがき風に終わればいいんじゃねーの? みたいな。
文芸の未来予想図 ‐ ネタばれ世界
で、あるがゆえに。と彼は言った。で、あるがゆえに未来は提示されねばならん。で、あるがゆえに。
僕が文芸に持っている不満は、それがべたーーーーーっとしていることだ。
文章の流れや段落の関係性などというものは、しょせん時系列順に並んでいる必要など無いのであって、ネタばれだとかそんなのつまらないよとか図なんて入れちゃダメだよとか言われようが言われまいが、情報は最終的に消化されてしまうものである。
本を二度読むのは感動のイメージを思い出し、言い換えるなら再活性化するためであって、別に一度読んだことを100%忘れたからというわけではないのです。
すると本質的に書籍は食べ物と同じようなものであり、結局胃袋でごっちゃになるのなら、なぜ綺麗に並べて出さなきゃいけないのという野蛮人の根本的疑問にはきっと誰も答えられない。それは遠い昔からのルールであり否定できないと思い込んでいる。
あなたちょいと本を上下ひっくり返して読んでごらんなさい。文章はひっくり返しても読めるのです。それが人間の能力ですゆえ、下から読んだって誰が怒るわけがあろうだかっ!!
人類は散逸的に与えられた情報を画像的に読み取って脳内で再構築することが可能である。それは超越的な認知を形成し、文章のストーリーだとか公開順序だとかそういう古典的努力の一切を超越したところに未来的な像を結ぶ。
どうして彼らは最初から図を添付しないのか。どうして彼らは最初からキャラクターシートを添付しないのか。どうしてどうしてどうしてネタばれしてはいけないのか。
僕は英雄の話が好きです。それはなぜかというと、そこにはありふれたストーリーがあり、ゆえにストーリーを知らなくても感動できるからです。
最期に英雄が立ち上がって、敵は倒れ、めでたしめでたしになる。そこに銀の弾丸が介在したかどうか嘘吐き男の嘘はほんとに本当になったのかは重要ではないです。
「それは英雄の話であり、英雄の話であった、あるだろう」
そこに文芸的価値の本質を見出すならば、文芸の形態は粉々に粉砕されても何も失っていないことになる。だから僕の文体が壊れているのは許されるべきなのであり以下略。